Mag-log in第十六話 足抜《あしぬけ》
秋から冬へと向かう頃、寒さも一段と増してきていた。
「梅乃、ちょっと来な」 見世の中から采が呼ぶ。
「はい。 なんでしょうか?」 梅乃は、采の元に行くと
「ちょっと、噂《うわさ》を拾ってきてくれないかい?」
噂を拾うとは、“吉原の中で噂を聞いてこい ” と言うことだ。
大体は引手茶屋に行き、馴染みの主《あるじ》であれば噂や情報を提供してもらえるが、ここ最近では聞かなくなっていたようだ。
「ウチの評判も気になるしね。 吉原細見の他にも情報がないかと思ってね~」
「わかりました」 梅乃は仲の町を歩き、聞き耳を立てていた。
(確かに、子供になら口が滑ることもあるだろう……) 子供ながら、梅乃はしっかりしていた。
『ヒソヒソ……』 やはり、色んな場所で、色んな事を話している人はいるものだ。
その中で、気になる人たちが目に入る。
そこには男性が三人いて、小さい声で話していた。
そしてお歯黒ドブを指さしていたのだ。
(なんかあるのか?) 梅乃はお歯黒ドブに近づき、垣根《かきね》の隙間《すきま》から外を見てみる。
「なにも変わらないけどな……何かあるのかな?」 今まで気にしていなかった梅乃は、マジマジと外を見ていると
「吉原の外って言っても、変わらないかな~」 そんな程度の感想だった。
そして翌日、朝から梅乃はお歯黒ドブの方を見にくると
そこには怒りを露《あら》わにしている男性がいる。
梅乃は、そっと近づいていく。
そこから聞こえてきたのは
「また足抜《あしぬけ》か……これで何件になるやら……」 そんな言葉だった。
足抜とは、脱走のことである。
妓女は借金を抱え、過酷《かこく》な労働《ろうどう》環境《かんきょう》の中で働かなくてはならない。
そして年季が明けるまでは吉原から出る事が許されないのである。
妓女が吉原から出られる方法は二つ。
身請けをされて、身請け人が借金を払うのがひとつ。
もう一つは、死ぬことである。
病気が重く、死ぬ間際になれば実家に帰らされることはあるが、だいたいは命を落とすケースが多い。
借金を抱え、身請けが出来ない妓女は吉原から出る事が出来ないのである。
吉原の出入り口は一つしかない。 大門である。
その大門には四郎《しろ》兵衛《べえ》会所《かいしょ》というのがある。
そこには足抜をしないか見張りをする者がいる。
男性は、吉原に自由に出入りできるが女性は出来ない。
仮に、女性が来客として来る場合は、四郎兵衛会所で許可証を発行してもらうのである。
勿論《もちろん》、吉原から出る時は厳しいチェックをされる。
なりすましを防止をする為である。
お金もない妓女が外に出るには、足抜をするほかないのだ。
塀を越え、幅《はば》二《に》間《けん》(現在の三、六メートル) 以前は幅九間(約九メートル)だったが、吉原を拡張するために狭《せば》められた河を渡らなければならない。
重たい着物を着て、女が泳ぎきることは不可能だ。
だいたいの妓女は諦める。
しかし、恋仲になった客と妓女は、叶わぬ恋と知って心中する者もいるくらいである。
それくらい吉原とは、厳しい所だ。
梅乃は、足抜の話しを采にする。
「あ~ いるね……だいたいは中見世や小見世なんだよ。 大見世は払いが良いし、花魁のなれるチャンスもある。 ただ、中見世から下だと客も金払いが悪いからね~」 采はキセルを吹かせながら話す。
「どうやって足抜ってするの?」 梅乃は興味で聞いてみた。
「なんだい? 足抜したいのかい?」 采はニヤッとする。
「まさか……仮に吉原を出ても、行くところが無いから……」 梅乃は、呆れた顔をしていた。
「それに、お婆が拾ってくれなかったら私や小夜は死んでいましたし……」
梅乃なりに、捨て子を育ててくれたことに感謝をしていた。
「そうかい! ならいい! だいたい足抜は、一人では無理だ。 大体は男数名が必要になるのさ。 一人は船を出して操縦《そうじゅう》。 残りは妓女が塀《へい》から落ちるのを支えるのさ。 水の音がしたら四郎兵衛会所のヤツラが飛んでくるからね~」
何年も吉原に居る采は、淡々《たんたん》と話していた。
「ふ~ん」 梅乃は、聞いてて眠くなってくると
“ポカンッ ” 「ちゃんと話しを聞け!」 梅乃は、采にゲンコツを落とされた。
「いたた……」 梅乃は、采に叩かれた頭を撫でながら次の情報を探しに出ていく。
(そんな強く叩かなくても……)
「そういえば、この前の三人って……」 そして梅乃は、お歯黒ドブのへ走っていった、
そして梅乃は、塀に沿って歩く。
「あった……」 梅乃が見つけたのは、塀に付いた足跡《あしあと》だった。
隙間からお歯黒ドブを見渡す。
(やはり船か……)
梅乃は、塀に沿って周囲を確認していく。
よく見ると、地面には塀に向かっている足跡がある。
特に塀の近くなると、足元は意外にも大人では見つけにくいものであった。
子供だから見つけられたのだ。
梅乃は塀沿いに歩き、詳しく見ていく。
すると、 「何をしている?」 声を掛けてきた男性がいた。
「はい? こんにちは……」 梅乃は咄嗟《とっさ》に挨拶をすると
「ここで何をしているんだ? お前、どこの禿だ?」 男性は、梅乃の手を引っ張った。
「いたた……私は三原屋の禿です。 三原屋の梅乃です」
「なら、余計に怪しい。 三原屋に行くぞ」 男性は三原屋に向かい、梅乃を突き出した。
すると、「この者は、私が調べさせていた梅乃ですが……」 采が男性に答える。
「そうでしたか……」 そう言って、男性は去っていった。
後に、あの男性は四郎兵衛会所の者だったと言う。
その数日後、
「梅乃、まさかとは思うんだが……お前に指名だよ」
采の言葉で、一階の大部屋は凍り付いた。
「なんでも、先日のお詫びだってよ」 采はキセルを咥え、ニヤニヤしている。
「ここで指名でも、妓女じゃないから借金は減らないけどな~♪」 采が高笑いをしていると、
「別にいいですよ。 借金が減ったとしても、行くところなんて無いですから……」 梅乃は息を漏らしながら言った。
そして、夕方になる。 季節は冬になり、夕方でも真っ暗だが吉原は昼のように明るかった。
「お待たせしました」 梅乃は、小夜と手を繋ぎ引手茶屋に来ていた。
そして、勝来と菖蒲が監視役のように後ろを付いてきている。
「よく来てくれた。 どうぞ」 会所の男性は、梅乃や妓女たちにも酒やお茶、食事を振舞った。
(なんか申し訳ないな……) 梅乃は袖をまくり、腕についたアザを見ていた。
このアザは、指名してきた男性が梅乃の腕を握った時に出来たアザである。
そして茶屋での食事を終え、お開きになると
「妓楼に行かれないのですか?」 菖蒲が会所の男性に言う。
「この立場ですから、ひとつの見世に行く訳にはいかないので……」
会所の男性は、そう言って断っていた。
その後、吉原で会所の男性が梅乃を見かけると、声を掛けてくるようになっていた。
「これ、あげるよ」 お菓子をくれたりもした。
(怪我をさせたことかな……) 梅乃は、引け目を感じるようになっていた。
そして、この事を采に話すと
「仕方ないね……」 采は、あまり贔屓にはしてほしくなさそうだった。
「すみません。 お婆……」 梅乃は謝ったが
「なんで謝る? いいことをしたんだ。 堂々としてな」 采は、采なりに梅乃を誉めていた。
翌日、梅乃は会所の男性に足抜の場所を案内している。
そこには采も同行していた。
「ここです」 梅乃は会所の男性に、足抜の足跡を見せる。
「なるほど……しかし、よく見つけたな~」 会所の男性は感心していた。
「私、小さいから見えたのです」
「わかった。 ここも強化しよう」 会所の男性は現場から戻っていった。
「ここだけかい?」 采が梅乃に訊くと
「……いえ 全部で三か所ありました」
「その度に経路を変えているのかね~」 采は、探偵のような顔をした。
「……」 梅乃は黙った。
「なんだい。 はっきり言いな!」 采の語気が強くなると
「たぶん、見世に逢引《あいび》きが入っているのかと……」
逢引き……客が見世の若い衆(男性職員)に賄賂《わいろ》を渡し、足抜の手伝いをさせること。
「お前……本当に十歳かい?」 采は驚いている。
「なんとなくですが……」
「三原屋《ウチ》は大丈夫なのかい?」 采は慌てだす。
「大丈夫だと思います。 ここ数日、足抜をしたのは中見世の妓女です」
とても十歳の推理とは思えなかった。
「だって、三原屋《ココ》は良いところです。 私はお婆に育てられ、本当に良かったと思っていますから……」
「お前……」 采は涙ぐんだ。
「だから……」 梅乃が言いかける
「だから……?」 采は前のめりに聞く
「だから、壺を割ったのは叱らないでください!」 梅乃は全力で叫んだ。
「あの壺……一昨日のやつ」 采の顔がヒクヒクしだした。
「お前、あの壺、いくらすると思っているんだい!」
「すみませ~ん」 そう叫んで、梅乃はダッシュをして逃げていった。
第四十九話 接近 春になり、梅乃と小夜は十三歳になる。 “ニギニギ ” 「みんな よくな~れ」 桜が咲く樹の下、禿の三人は手を繋ぎジャンプをする。 「こうして段々と妓女に近くなっていくね~♪」 小夜はワクワクしている。 (小夜って、アッチに興味あるんだよな~) 梅乃は若干、引いている。 「そういえば、定彦さんに会いにいかない? 『色気の鬼』なんて言われているし、そろそろ習わないと……」 小夜は妓女になる為に貪欲であった。 「なら、お婆に聞かないとね。 定彦さんもお婆に聞いてからと言ってたし」 梅乃たちは三原屋に戻っていく。「お婆~?」 梅乃が声を掛けると采は不在だった。「菖蒲姐さん、失礼しんす」 梅乃が菖蒲の部屋に行くと、勝来と談笑をしていた。「何? どうしたの?」 菖蒲が聞くと、「あの……定彦さんから色気を習いたいのですが……」(きたか……) 菖蒲と勝来は息を飲む。「あのね、梅乃……お婆は会うのはダメと言っているのよ……」 菖蒲が説明すると、「そうですか……」 梅乃は肩を落とす。「理由は知らないけど、そういうことだから」 梅乃が小夜に話す。「理由は知らないけど、お婆がダメと言って
第四十八話 鬼と呼ばれた者とある午後、菖蒲と勝来で買い物をしていた。 本来なら、立場的に御用聞きなどを頼めるのだが気晴らしがてらに外出をしている。 「千堂屋さんでお茶を飲みましょう」 菖蒲が提案すると、勝来は頷く。 「こんにちは~」 菖蒲が声を掛けると、 「あら、菖蒲さん。 いらっしゃい」 野菊が対応する。 「お茶と団子をください」 妓女である二人だが、年齢でいえば少女である。 こんな楽しみを満喫してもいい年齢だ。 そこに、ある張り紙が目に入る。 「姐さん、あれ……」 勝来が指さすものは、注意書きであった。 そこには、『円、両 どちらも使えます』という張り紙だった。 明治四年、政府の発表では日本の通貨が変更される事だった。 吉原では情報が遅く、いまだに両が使われていた。 通貨の変更から一年が過ぎ、やっと時代の変化に気づいた二人だった。 江戸時代であれば、両 文 匁などの呼称であったが、明治四年からは、円 銭《せん》 厘《りん》という通貨になっていた。 ただ、交換する銀行が少ない為に両替ができない場合もあり、両なども使えていた。 「時代が変わり、お金も変わるのね~」 実際、働いたお金のほとんどが年季の返済になっていて、手にするお金は小遣い程度だ。 価値などは分からなくて当然だった。 三原屋に帰ってきた二人は、采に通貨の話をすると、 「あ~ なんか聞いてたな……そろそろ用意しようかね~」
第四十七話 遊女の未来明治六年 三月。 政府の役人が礼状を持ってきた。「去年の秋にお達しが来ているはずだ。 妓女を全員解放するように」「はぁ……」 文衛門は肩を落とす。明治五年の終わり、政府からの通知が来ていた。日本は外国の政策に習い、遊女の人身売買の規制などを目的とした『芸《げい》娼妓《しょうぎ》解放《かいほう》令《れい》』が発令される。遊女屋は「貸《かし》座敷《ざしき》」と改名される。 そして多くの妓女は三原屋を出て行くことになる。妓女のほとんどが「女衒」や「口減らし」を通して妓楼へやって来ているからだ。そういった妓女を対象に解放をしなくてはならない。三原屋では妓女の全員と古峰が対象となる。 梅乃と小夜は捨て子であり、三原屋で育っているからお咎《とがめ》めはない。再三の通告を無視し続けていた吉原にメスが入った形だ。「お婆……私たち、どうすれば……」 勝来と菖蒲が聞きにくると、「ううぅぅ……」 采は悩んでいる。妓女たちも不安そうな顔している。「ちょっと待っててください」 梅乃は勢いよく三原屋を飛び出す。「どこ行ったんだ?」 全員がポカンとしている。梅乃は長岡屋に来ていた。
第四十六話 袖を隠す者 昼見世の時間、禿たちは采に指示を受けていた。 「いいかい、妓女として芸のひとつは身につけておかないとダメだ! 舞踏、三味線、琴でもいい…… わかったね!」「はいっ!」 三人は元気に返事する。 この冬を越えれば梅乃と小夜は十三歳となる。 菖蒲や勝来は十四歳の終わりに水揚げをし、十五歳になったら客を取る準備をしなければならない。 それまでの準備期間となる。「まだ早いんじゃないか?」 文衛門が采に言うと 「あぁ、そうだね……早いかもね」 采は冷静な口調で返す。 「だったら何故……」 「今、しなかったらアイツ等は ずっと悲しんでるだろ? 気を逸《そ》らしていくのさ」 采は、そう言ってキセルに火をつける。 これは、采の考えがあっての行動である。 赤岩の死後、落ち込んだ空気を一変させる必要があったのだ。 これは禿だけではなく、三原屋や往診に出た見世にも言えることであった。 これにより、三原屋の妓女は禿たちに芸を教えることになる。 二階の酒宴などで使う部屋が練習部屋になっている。 古峰は琴を習っていた。 その要領は良く、習得が早い。 教えていたのは信濃である。「古峰……アンタ凄いわね」 信濃は目を丸くする。「い いえ、信濃姐さんが優しく教えてくれるので……」 古峰が謙遜すると、「嬉しい事を言ってくれる~♪」 信濃は古峰の肩を抱く。
第四十五話 名も無き朝深夜から明け方にかけて、岡田は梅乃の身体を温めていた。心配もあり、以前に玉芳が使っていた部屋を借りている。「梅乃、まだ寒いか?」 声を掛けると、「うぅぅ……」 声は小さいが、かすかに反応を見せる。 (よかった……) 岡田は梅乃と同じ布団に入り、体温の低下を防いでいた。 そこに小夜と古峰が部屋に入ってくる。 「梅乃―っ 大丈夫…… って……あの、何を……?」小夜と古峰が見たものは、一緒の布団に入っている二人の姿だった。「いやっ― これは体温低下を防ぐ為にだな……」 岡田が説明していると、「そんなのは、どうでもいいです。 梅乃はどうですか?」小夜は顔を強ばらせている。「体温は戻ったようだ。 何か温かいものを飲ませてくれ」 岡田は布団から出て、赤岩の部屋に向かった。外は、まだ暗いが朝が近づく。これから妓女たちは『後朝の別れ』をしなくてはならない。 岡田は息を潜めるように赤岩の横に座った。二階も騒がしく、菖蒲、勝来、花緒の三人も後朝の別れを始める。二階を使う妓女たちは、朝の目覚めの茶を入れる。そして客が飲み干し、満足そうにしたら後朝の別れとな
第四十四話 静寂の月赤岩が布団で横になっている。 そこに梅乃が看病をする。 岡田は中絶の依頼を受け、妓楼に向かっていた。「先生、しっかり……」 梅乃が赤岩に声を掛けている。 大部屋の妓女たちも赤岩の部屋を見てはザワザワしていた。「お前たち、さっさと支度するんだよ! 仕事しな、仕事……」これには采も見かねたようだ。夕方、妓女たちは引手茶屋に向かう。 その中には小夜や古峰もいるが、梅乃は赤岩の看病で部屋に籠もっていた。「先生……私はいます。 まずは安心して休んでください」 梅乃は濡れた手ぬぐいで赤岩の身体を拭いている。「梅乃……」 小さな声が聞こえる。 これは赤岩がうわごとの様に発している。 「先生……私はここにいます」 この言葉を何度言ったろうか。 やり手の席には采が座っているが、落ち着かない表情をしていた。そこに引手茶屋から妓女が客を連れて戻ってくる。 これから夜見世の時間が始まる合図である。梅乃は部屋から出て、客に頭を下げる。 時折、笑顔を見せては客を歓迎していく。 この笑顔に采は悲痛な思いを寄せていた。客入りの時間は岡田も三原屋に戻ってこられない。 もし、終わっていても何処かで時間を潰さないとならない。 客に安心を与える場所であり、夢の時間を